奥会津の大内宿に行きました

最近は古い民家が残る町並みが評価され、観光名所になったりしていますが奥会津の大内宿もその一つでしょう。平清盛の全盛期、後白河天皇の第二皇子である高倉宮は源頼政のすすめで反平家と共に恭兵し、京都宇治川で合戦となりました。この合戦で高倉宮は行方不明。流れ矢にあたって戦死したとも言われていますが伝説によれば宇治川で敗れた宮は、二十人ほどの供を連れ大内に立ち寄り、この里が都の風情に似ている所から、それまで山本村と呼ばれていたものを大内村と改められたと伝えられています。都会の暑苦しさを離れ、時代背景をゆっくりと想い浮かべながら古い民家を散策するのは贅沢な気分になります。P7090008
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阪神淡路地震から15年が経ちました

阪神淡路地震から15年が経ち、震災前より人口が増え綺麗な街に生まれ変わりました。震災直後に社員一同とともに建物被害調査をした時を思い出しながら散策してきました。拡張された表通りは近代的なオフィスビルが立ち並び整備されていました。電柱が撤去され街路樹が街並みを和ましています。旧神戸市役所は改修され新市役所へ連絡通路で行き来が出来るようになっています。生田神社の社殿も修復され、賑わっていました。死者数6,437人の尊い命が犠牲に、天災とはいえ逃れる術が無かったのか、今でも悔やまれます。新神戸市役所の隣に阪神淡路地震の「モニュメント」が設置されていました。P4040155P4040160

日本一の梅の里「吉野梅郷」は郷愁を誘います

  新宿からJR中央線「特別快速青梅行」を利用し青梅で「奥多摩行」に乗り換え、二駅で日向和田駅。4両編成の電車は梅見物客で一杯でした、人混みに押されながら駅を出ると、そこはのどかな別世界でした。神大橋を渡ると道の両脇にはお店が並び、道の中央では「梅まつり」で民謡踊りが披露され祭りを盛り上げていました。「梅の公園」は西から東に傾斜しており、この斜面を利用して開園した自然公園となっています。園内には120種約1,500本の梅が植えられており近くには「吉川英治記念館」もあり、「新平家物語」はこの地で執筆を始めたそうです。P3140014P3140061
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那須に行ってきました

Img_0199Img_0210那須には年に数回出掛けます。私には那須の気候が妙に肌に合い元気をもらって帰ってきます。この地の北西に史跡に指定された「殺生石」といわれる所があります。名前の由来は、昔中国やインドで美しい女性に化け、世を乱し悪行を重ねていた狐が日本に渡来し朝廷に仕え日本の国を滅ぼそうとしましたが、正体を見破られ那須野ヶ原へと逃げて来ました。その後も領民や旅人に危害を加えた為、朝廷の命により退治されましたが、妖狐は毒石となり人畜に害を与えたので「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じたということです。かの松尾芭蕉も奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ「石の香りや夏草赤く露あつく」と詠んでいます。