創業者よりごあいさつ

こんにちは、
善光建設創業者、熊田敏夫です。

おかげさまで40年以上にわたり地域の工務店としてお客様に恵まれ、現在の家づくりの考え方ができあがりました。

誠に僭越ではございますが、これから私の家づくりへの想いとそのルーツをご紹介させていただき、
善光建設を代表して、お客様へのご挨拶とさせていただきたいと思います。

少々長くなりますが、ご興味を持っていただけましたなら、ぜひご覧いただければと思います。

人と同じは嫌! 学校の先生を悩ませていた少年時代

「トシボー、トシボー」

私の田舎は、福島県の須賀川市。

白方中学・須賀川高校。当時のあだ名が “トシボー” でした。
学校へは、バス30分+徒歩30分の距離を大自然を楽しみながら通っていました。

今、記億にある当時の私の性格は、とにかく “人と同じは嫌” ということと、
“次から次へと面白いことを探しまわるのが好き” ということですね。
飽きっぽかったとも言えますが (笑)

そのくせ頑固な性分もあって、
ある日の授業で先生が 「お日様は東から昇って西に沈む」と説明してくれたのですが、
クラスの中で私だけ西から東だと主張し続け、先生をえらく悩ませたことが記億に残っています。

父親の想いを受け継いで、18歳で上京・・・独立への第一歩を踏む

1クラス40人のうち、15人くらいが高校に行ける時代に、
私は、高校卒業後 “東京で独立して事業をするんだ” と上京しました。

今思うと、父親の影響が大きかったと思います。

23年前に他界した父親は海軍出身で、戦争に負けてからは福島で農業を営んでいました。
海軍での役割は、技術者。戦争末期頃は飛行機の解体を担当していたと聞いています。

「東京に行って事業をしたかった」

幼いころから聞かされていた父の夢でした。
正義感が強い、とにかくウソをつきたくない、機械いじりが好きな頑固者。
そんな父親の想いを自分が叶えるんだ! そんな思いもあり、 上京を決意しました。

「石の上にも三年」

当時、私にくれた父のその言葉は、その後の私の生き方に大きな影響を与えた一言です。

その言葉を胸に上京。日航ホテルでベルボーイの仕事をしたり、
出版社で記者として政治家や経済界の人などにインタビューをして回ったりするなど、
独立前の準備と意を決して、好奇心旺盛に活動していました。

やがて、出版社のご縁で不動産会社に入社。23歳のときでした。
そこで私の転機が訪れたのです。

この家族はどうなってしまうんだろう。不動産会社勤務時代に感じた違和感

当時は高度経済成長期の真っ只中。家は建てれば売れる時代でした。

不動産会社勤務時代

「売れさえすればいい」 と当時は急ごしらえの建築が乱発。
私が入った会社も例外ではなく、
「後でリフォームすればいいじゃないか」 という論理で、
私もその仕事をせざるを得ませんでした。

あるお客様に家を引き渡したときのことです。
お客様ご家族が嬉しそうに住もうとするその新居は、急ごしらえの建築でした。

「この家族はこの後どうなってしまうんだろう」

万が一、地震が起きたら・・・寒い冬が訪れたら・・・
その万が一の時は、自分は担当ではないんだろうな。
家族の笑顔を横目にそんなことを考え、やりきれない思いでいっぱいになりました。

当時の仲間と

「こんなに人を笑顔にする仕事なのに、なぜ?」

悶々とする気持ちの中、会社ではとんでもないことが起こっていました。

「下請けの支払い、手形でよければ満額払うけど、今スグ現金で欲しいのならば、1割カットになる」

それは、下請けで働く職人さんの給料の支払いの際のトラブルでした。
その後、職人さんたちとの飲み会で聞いたグチは本当に聞くに絶えないものでした。

奇しくもこの出来事をきっかけに “独立” という意識が改めて強く芽生えたのでした。

独立したら、お客様に対しても、協力してくれる業者の皆さまに対しても、
「約束事はキチンとやろう」。
そのとき、そう決意した私は、独立した当初から職人さんの請求は1円単位までしっかり渡しています。

30歳、独立。お客様に本当の笑顔を提供するために、と考えたこと

「このまま、間違った会社勤めを続けていたら・・・」
そんな想いが強くなり、いよいよ独立を決意したころ、世の中はオイルショック・ニクソンショックの影響で、とたんに家が売れない時代になっていました。

お金もあるわけではありませんでしたが、家内の頼もしい後押しもあり独立。

やがて、不動産会社勤務時代から付き合いのあった、熊谷(弊社常務)とともに「お客様に本当に笑顔で渡せる家づくり」 を目指し、その探求を始めたのでした。

お客様の笑顔、そう考えたときに浮かんだのがあの家族のこと。

「住み始めたときの喜びが、住んでからも続く家」
私の出した答えは、 「家の性能を上げること」 でした。

「そこまでしなくても」 同業者もそっぽを向いたある家づくりとの出会い

その後は、よりよい住宅づくりの研究をひたすら。
「冬でも真夏みたいな格好で暮らしている」 ヨーロッパの建築を学んだり、
「地震に強い家づくり」 のアイデアを現場で職人さんたちにもらったり。

ただ、自分でもできる!と確信できる工法がなく模索していたところ、

ふと手にした雑誌 “週刊ダイヤモンド” の中に書かれていた 「FPの家づくり」 という話に、
衝撃を受けたのです。

この 「FPの家」 という工法(家づくり)は、今まで出会ったどの工法よりも凄い。
それは、私の理想とする 「暖かくて丈夫な家。住んでからも家族を笑顔にし続ける家」 に十分過ぎる性能を持っていました。

ただ、同業者間では、その性能こそ認めるものの 「そこまでしなくても」 とその工法の導入には慎重でした。

(これなら、快適な家をつくれるのに・・・)
私の感覚からすると、 「なぜ?」 との想いもありましたが、理由もありました。

坪あたりの単価が上がってしまう。

高いと売れない、だからそこまでしなくてもよい。
そんな考えが、まだまだ建築業界では主流だったのです。

「売れないよ」
そんな言葉を横目に私は、

「確かにこれでは、お客様には手が届かないかもしれない。
 でも、だからと言って快適な家を提供することを諦めてしまっていいのだろうか・・・」

という疑問を持ちました。

・・・お客様の立場で考えると、これは必ず今後の主流になるだろう。」
と何か確信めいた気持ちを胸に、その研究をすすめました。

辿り着いた、スーパーウォール工法。

さらにスイッチが入った私は、探求を続けました。
「安全で、快適でかつ、価格面でも自信を持ってすすめられる工法を・・・」

前述の 「FPの家」 をはじめ、
フクビのエアサイクルの家、
OMソーラーの家、   (専門的な言葉ですみません)
・・・とにかく、たくさんの家を見てまわり、その研究会にも参加してきました。

そして、出会ったのが、トステム(LIXIL)のスーパーウォール工法でした。

出会いは、トステムのある勉強会。
その勉強会は、当時では珍しく建築業界の同業 (いわば、ライバル関係にある会社同士ですね)
が集まって、今後の日本の家づくりに必要なこと(技術や知識)を意見し合う場でした。

同業の垣根を超えて、これからの日本の住宅はどういう方向に向かうのか、考える。
そこには、本気の 「熱い」 「ちょっと堅物な・・・(笑)」 仲間たちが集まっていました。(私もその一員です)

そうした努力もあって出来上がったのが、 「スーパーウォール工法」 です。

真冬でも暖かく過ごせる家・・・ 真夏でも涼しく過ごせる家・・・
カビの原因になる結露の起きにくい家・・・ 室内の空気がきれいな家・・・
ちょうどよい湿度の保てる家・・・ 何より地震にびくともしない家・・・

なんと言っても、他の工法より仕上がりのバラつきが出にくく、安定して高性能の住宅ができる。
価格面においても高すぎることなく、

お客様に 「安心して家づくりを楽しんでもらえる」 理想の工法でした。

この工法をベースに、お客様にとって最高の家をつくる。

この決意を胸に、
スーパーウォール工法の家づくりを知り尽くした善光建設スタッフ、
熊谷、矢部、寛貴とともに、ご家族の生活環境・ご要望に合わせた最適な家づくりを始めました。
(その一部をご紹介・・・ 「善光建設の標準仕様」 は←こちらをクリックください)

この良さをわかって欲しい。そう思って建てた、熊谷の家。

「俺達は、絶対に時代の先を行っている」

そんな強い気持ちとは裏腹に、家が全然売れない日々が続きました。
ネックはやはり値段でした。

・・・ちょっと高い。

今となっては、その理解も深まり、広がってきましたが、
当時は、スーパーウォール工法の名前もあまり知られておらず、
やっている建築会社も少ない。
そんな中で、当時小さな工務店であった我々が、
今までよりちょっと値の張る提案するというのは、理解をいただくのに苦労しました。

「実際に、体感してもらえればわかるのに・・・」

そんな思いもありましたが、
当時はお金もまったくありませんでしたので、モデルハウスなどその良さを伝える工夫も不足していました。

「高いからそこまでする必要はないよね」
当時の同業者の言葉も頭をよぎる中、ここまで二人三脚で家づくりをしてきた熊谷から、ある提案がありました。

「我が家をスーパーウォールで建てて、モデルハウス代わりにしましょう」

確かに、モデルハウスが不足していたこともありましたし、
実際に自分で住むことでよりその説明にも説得力が増すだろうということで、
熊谷の家を実験台にして、スーパーウォールの家を建てることにしました。

実体験というのは、本当に説得力があるんですね。
このとき実感しました。そこから徐々に評判が立ち始めたのです。

「丈夫だね、暖かいね」

住み始めてからのお客様の評判は、予想どおり。
私たちが確信したことは間違っていなかったことが証明された瞬間でもありました。

その後、神戸の震災でスーパーウォールの家が倒壊ゼロだったこと。
また、新潟の地震においても、その強さを証明する結果となり、その工法は世に認められることになったのです。

忘れもしないのが、はじめてスーパーウォールで家を建てさせてもらったお施主様の話。

そのご家族には90歳のご老人がいらっしゃったのですが、
以前はなかなか部屋から出てくることもなく、一見、弱り果ててしまっている様子で。
年齢が年齢だけに、家族も仕方ないかなという様子でもあったそうなんですが、
新しい家に住まいはじめてから伺ったとき、2階から元気に階段で降りてきたんですよ。

実は、動けなかった原因が、家が寒いからだったそうで。
家が寒いから服を着こむ、着こむから重い、重いから動きづらい、動きづらいから動けないという、悪循環だったようなんです。

それが、家を建て替えたとたん、「薄着でも暖かい」って動き回るようになったらしくて、
そのご家族からは、「今はその薄着のまま外に出ちゃうのが悩みなんですよ」 と話を聞いたんです。

その話を聞いたときは嬉しかったですね。 お客様を笑顔にし続ける家、その性能の研究に俄然熱がはいる結果となりました。

このお客様はもちろん、この家が建つまでは「住まいの空間が健康を害するもとになっている」 ということに気付いておられませんでした。

「いい空間をつくるだけでなく、プロとしてお客様が気づかないところにもご提案差し上げるべき」

世間から過剰と苦笑いされるほど、私がその住宅性能の研究にこだわるわけは、こんな想いもあるからなんです。

これからも、お客様の笑顔をつくり続けるために。

・・・ここまで、長文をお読みいただきありがとうございました。

私の話がほとんどで、退屈な話もあったかもしれませんね。
でも、これから家づくりをする皆さまには、本当に良い家を建てて、住んでからも快適に幸せに暮らして欲しいと思っています。

「正義感の強い頑固者」

そんな親父の姿を胸に。
その結果、行き着いた私の今の家づくりのポリシーは、

「お客様に心から笑顔で渡せる家づくり。」

住宅のプロとして、ウソ偽りのない、ご提案を、現場づくりを、建物づくりをすること。
当たり前のことですが、このことを実直にこれからも続けていきたいと思います。

お客様は、老後のお金、ローンでは命を担保(生命保険)にして、一生の借金を背負うわけです。
その期待には必ず応える。絶対に失敗させない。

だからこそコチラ側が、これが本物だ!と思えるものを提供していく。
そのために、私の家づくりへの探求はまだまだ続きます。

「善光さんに出会ってよかった」 と言ってもらえる住宅会社に、
善光建設は、これからも地域の工務店として、お客様の住んでからの幸せを考えた家づくりを続けていきます。

末筆ではございますが、

あなた様のマイホームの夢が実りある現実のものとなるよう、心よりお祈り申し上げます。
もし、私たちの考えにご賛同・ご興味お持ちいただけるのならば、ぜひ一度ご相談いただければ幸いです。

善光建設株式会社 取締役会長
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